ネットを長年やってきて思うことがある。
イラストにしろ、小説にしろ、趣味で創作をやる人にとって最も励みになるのは、感想をもらえること。
創作仲間の間で互いに評価し合うのもいいものだ。
ところが、その感想や評価で、本当にためになるものはどれほどあるだろう。
実は、俺たちにとって他者(特にアマチュア)の作品をしっかりと批評するのはとても難しく、勇気のいることではないか。
だから、ネットでは批判をする人が少ない。
「よかった」「すごい」「クソ」
Google Playのレビュー欄などは、上のような幼稚なコメントが並ぶ。
レビューとは何であるか、わかっていない。
しかし、これはネットリテラシーの問題だけではないだろう。
長文のレビューを投稿すると、「素人が評論家気取りで書いてる」などと指を差して笑われることもある。
そもそも真っ当な評価ができる人は多くないだろうが、それをするつもりもない、もしくはしたいけどやめてしまうという人が多いと思う。
アンチはいる
アンチ(アンチファン)は方々で批判しまくっている、つまり「ネットでは批判をする人が少ない」なんてことは全くない、と思う人もいるだろう。
しかし彼らのする“批判”はほとんどの場合ただの悪口であり、批判ではない。
そして彼らの行動原理は他者をこき下ろして優位に立った気分に浸ることであり、多くの場合は人気や才能に対する嫉妬心である。
また、専ら自らの匿名性を笠に着ているから、ここで扱う「真っ当で責任ある批判」とは異なる概念である。
褒めるしかない
Pixivのようなコミュニティでは、「作者とお客様」というような図式ではなく、多くの利用者が自らも作者として参加している。
自分も作者であるからこそ、制作の苦労も、感想をもらえる喜びもよくわかっている。
だから、コメント欄には「すごい!」「きれい!」「可愛い!」という安直な褒め言葉が並ぶ。
こういうコメントでももらえるのはすごくうれしいことだし、ありがたいことなのだが、もっとお互いにとって有益なコメントができないものだろうか。
しかし、批判をすれば「アンチ」と呼ばれ、作者だけでなく周りからも叩かれたり、白い目で見られたりされかねない。
それこそ「素人が評論家気取りで」だとか、「そもそも批判なんて求めてない」とか言われる場合もあるだろうが、正当な批判は作品の質や作者のスキルを高めるはずなのだ。
Pixivに対しては、「互助会」とか「傷の舐め合い」という辛辣な揶揄も存在するが、現状ではある程度そういう面もあるのだろう。
実際にPixivにおいて、ぶっちゃけ上手とはいえない俺のイラストには、評価で満点となる「10」以外をつけられたことがない。
評価する=10点、評価しない=点をつけない、これらの選択肢しかないのか。
批判が許されない、褒めるしかない空気を感じる。
批判のしかた、されかた
本当によくないのは、批判でもいい加減な、論理的でなく、一方的で一面的なものだ。
「アンチ」がするような批判は、するほうもされるほうも読むほうも時間の無駄でしかない。
アンチならともかく、普通の人は作品を作ってくれる人に対して、まして気心の知れた間柄でもない人に対して批判をするのは勇気がいることだ。
しかし、お互いに創作をしているのならば相手のためにも自分のためにも、感想に「良い批判」を添えるのはいいことだろう。
良くなかった点に対し「良くなかった」とだけ言うのではなく、「どこがどう良くなかった」と具体的に指摘する。
さらに、「もっとこうすればいいのではないか」という提案もできればなお良い。
批判された側は、「他者から見ればこういう見方もあるのか」と気付くことができる。
そしてその批判に反論があれば、「○○を意図しているから、その指摘は当たらない」などと返答すれば、批判した側にとっても作者の意図や自分の誤りに気付くことができ、今後に活かすこともできる。
ただ褒められるだけでなくこういうやり取りをするのも、お互いに勉強になるし、楽しいと思うのだが。
もちろん「批判は一切受け付けません」という場合なら別だが、真っ当な批判はむしろ買ってでも求めるべきだと思う。
で、お前は?
ネットを生き抜くうえで、もしくは創作勢として、主義主張的にはできるだけフラットでいることを心掛けているが、こういう評論をブログに書くこともある。
もちろん評論家気取りで偉そうにこんな長文を書いているわけではないし、そうでなくても俺が真っ当でためになる批判をできるとかいうわけでもない。
「批判をするのはタダ」とはよくマイナスの意味で用いられる言葉だが、こういう評論も一つの意見であり、間違っているなら間違っていると真っ向から反論されてしかるべきだ。
幸いにも俺は無名の一般人だから、しがらみにとらわれずに好き勝手言えるのだが。
大事なのは、批判をするときは責任を持ってすることだ。
そして、どんな評価も批判も、正当であればしっかり受け止めるということだ。
ところで
俺は褒められるのも批判されるのもウェルカムなんだが、そういうのを言葉でもらったことはほとんどないぞ。
ということで、ここで「俺にも感想ください!」って宣言しておくか。
批判は買ってでも求めろって書いたけど、俺の場合は本当に金で買わないともらえそうもないな……
そもそもネット上での人付き合いが少ないからだけど。フォロワーだってほっといても増えないし。
セルフプロデュース、プロモーションは大事だけど、めんどくさそう。
来たるべき成功のためにはそういうのもちゃんとしなくちゃ。
というか、本当はそういう問題じゃないよね、ぼっちなんだよね……
ネットの批判というのは「上達の押し付け」です
見ず知らずの他人に貶されてまで上達したい人は少ないですし、本当に上達したい人であれば然るべき師に教えを請うので結局見ず知らずの他人の意見など求めません
第一、批判というのは結局「こうすればもっと俺好みになる」という意見でしかないので、その批判を受け入れたとしても「ケチをつけてきた特定個人の好みに合う作品が作れるようになる」だけであって、上達とは程遠いです
自分の方がその分野では格上だと思い込んで他者を見下し自分の方法論を押し付ける、それはアンチ達がする「他者をこき下ろして優位に立った気分に浸ること」と何の違いがあるのでしょうか?
コメントありがとう。
「ネットの批判」と切って捨てるんじゃなくて、ネットだろうがなんだろうが、「真っ当な批判」はできるんだと俺は確信しているし、そうなってほしいという願いを込めてこの記事を書いたと記憶してるんだけど。
真っ当な批判というのは、「こうすればもっと俺好みになる」っていうんじゃなくて、客観的だったり、示唆に富むような観点を与えてくれるもの。
批判することイコール「格上だと思い込んで」「他者を見下」すことじゃないだろう、って記事に書いたし、それが俺の意見なんだけど、あなたは読んでないのか、読んでも納得してくれなかったのか。
きっとあなたのような人が、他者に批判もできず、批判することに反感を感じる、この記事で論じたような人たちなんだろう。
そりゃ誰彼かまわずいきなり批判を言って回るのは心臓に毛が生えてない限り難しいけど、「然るべき師」とかじゃなくても、本音で語り合える間柄の「友人」を持ちたいものだ。
「師」だって万能じゃないし、人の視野には限りがあるから。
お早いレスポンスありがとうございます。お付き合いいただき恐縮です。
そもそも真っ当な批判ができる人が増えることに何の意味があるのでしょうか?それそこネットに限らず批判に意義がある場面なんて学術論文でしか見たことはありません。
第一、貴方の言うような真っ当な批判すら私は生まれてこのかた見たことがありません。「客観的」「示唆に富む観点を与えてくれる」と言ってもそれは結局批判する側が勝手にそう思い込んでいるだけではないでしょうか。
「どこがどう良くなかったか」「もっとこすればいいのではないか」を示すと言いますが、そこでいう良し悪しのバロメーターは批判者の好みでしかないと思うのですが?それが客観的だなんてまさに批判者の自惚れですよね?自分にはそれがわかるほど優れた審美眼が備わっていると自惚れているだけですよね?それを「格上だと思い込む」以外なんと表現できるでしょうか?
自分を格上だと思い込んで頼んでもいない批判を押し付けてくる自惚れ人間を「本音で語り合える友人」だなんて思いたくもありません。たとえ万能でなくても作り手本人が「この人に学びたい」と思わせるものがあるから「師」なのです。そんな「師」こそが「本音で語り合える友人」になり得る存在だと、私は思います。
いえいえ、こちらこそ。
真っ当な批判を学術論文でしか見たことがない、ってのにはさすがに驚いた。
あなたの理想が高すぎるか、よほど欠点のないものにしか出会ったことがないかのどちらかだろう。
そんなに批判って神経質になることかねぇ。
あなたにはこれまでに何かあったのか。
もちろん完全に客観的になることは不可能だろう。
でも、その玉石混交の批判の中から普遍的なもの、または新たな気付きを選び出し、くだらないものはスルーする、というふうに何だって活かす方法はあるんじゃないかな。
まあ「師」は誰でもいいけど。
あなただって現に今、猛烈に俺を批判してるんじゃないか。
あなたは今自惚れて、俺のことを見下して、自分を格上だと思って意見を押しつけているのか?
……だとしたら、ごめん。
批判する人は軽ーくして、された人も「ふーん」くらいに思いながら軽ーく取り入れられないものだろうか。
ブログのコメント欄で見苦しい議論を持ちかける形になってしまいました。他の閲覧者様のお目汚しになってしまい申し訳ありません。これで最後にしようと思います。
ひとつだけ訂正をさせていただくと、私は学術論文ですら真っ当と感じた批判を見たことはありません。ただ、学術論文の世界では批判が研究者同士の唯一のコミュニケーションツールなのでそこでならまだ曲がりなりにも批判する意義があると言っただけです。
また「理想が高すぎるか、よほど欠点のないものにしか出会ったことがないか」とのことでしたが、もしそうであるなら個人的には後者の方だと嬉しいですね。
そして私が貴方を「猛烈に批判している」とのことでしたが、まさに仰る通りでした。中傷になりかねないので、具体的にどう思っていたかは明言しませんが、確かに私は頭の中で見下していました。ミイラ取りがミイラになるとはよく言ったものですね。
これ以上続けるとそれこそ「批判の批判」というもっとも不毛かつ滑稽な行いを始めてしまうことになりかねないので、もう自粛させて頂きます。
お付き合いいただきありがとうございました。この議論が真に無意味なものにならぬよう、頂いたご意見もふまえて改めて「批判」というものを考えてみようと思います。
まあまあ、どうせこんなところ誰も見てないから、そんなに気にしないで。
腰が低そうなあなたでさえこんなに熱く(?)なるのだから、たぶん俺とあなたはこれ以上議論してもわかり合えないんじゃないかとは率直に思ったよ。
でも、たまになら別にいいけどね。見ての通り、暇人がたまに書いているブログさ。
でも、俺ももちろんあなたの意見を批判していたわけだけど、もしあなたがこれも「俺があなたを見下している」と感じたなら、それは誤解だ。
俺はあなたのことを、自分を冷静にとらえることができる賢明な人だと思っているし、それこそネットではなかなか見ないタイプの「いい批判」をする人だ。
俺の中ではもう十分、言いたいことを言いあった友人だし、あなたが匿名なのが惜しいくらいだ。
こちらこそありがとう、と言いたいところだけど、俺はウェブマスターだから、ブログにコメントが来たら返さなきゃならないのは義務だ。
(目に余るコメントは消すけどね)
相手がいつまでも食い下がれば、俺もいつまでも反論し続けることになる。
だから、適当なところで議論を畳んでくれるのはすごく助かる。
またいつか、気が向いたら来てよ。
今度は「批判の批判」じゃなくて、もっと楽しい話をしよう。
P.S.
この記事はこのブログの中でも最も読む人が少ない部類なんだけど、あなたはいったいどうしてここに来たのだろう。
興味を持ってくれたのなら嬉しいけど、検索とかでひっかかりやすいとも思えないし……
(おかげさまで、一部のワードでは上位に表示されるサイトになってるけど)
ウェブマスターとしては、SEOとかUXの観点から気になるのさ。
違う人ですみません。確か、
『創作仲間 アンチ』
で下へ下へ行ったらたどり着きました。それほど深くないかと思います。(スマホの体感)
この検索ワードを使った理由は、ある動画で、
小説を拡散などをしてくれていた創作仲間に賞へ出して書籍化を狙うと打ち明けた人が、手のひら返しをされてSNSなどでパクリなどとこき下ろされた
という内容を見て、「創作仲間って拡散のために無理に付き合うものだろうか?」、「最初の関係構築で合わない人と付き合ったらそうなるのだろうか?」という個人的な好奇心を満たすためです。
元々友人関係だった人でも合わない人がいるということを知ることができました。個人的に考えていた相互扶助を前提にするみたいなところで拗れたという話はここまでで見ていません。
記事の内容を読んで、具体的な意見が欲しいし、肯定だけほしいわけじゃないと思っていたので、すごく納得しましたし、同じ意見だと思いました。
またコメント欄のやり取りも途中あれ?と思ったけれど、最後はもやもやせずに終わって意見交換として好ましいと思いました。(率直に言っているつもりです。気を悪くされたらすみません)
具体的に批判する場合でも、押し付けがましくないかやより妥当性があると思える意見か(絶対の正解はありませんので)などを自分で(他人にもしてもらえるなら他人にも)一考する必要があると思いました。批判するときは謙虚であれ、と思ったというか。うまく言えませんが。
また、受け取り手もそれを妥当だと思うか検討する必要があると思いました。コミュニケーションになるわけなので、必要ないと思ったら受け取らないとか、こう思っていてこう伝えたけれどそう思われた理由は何ですかとか、必要に応じて対応するのかなと思います。
欲しいと思っている人も欲しくないと思っている人もいるわけなので、どちらの立場か明示すると棲み分けできるのかなとも思いました。